太安万侶くんって何した人?


奈良二泊目の朝は「洋定食」でオムレツを食べ、今日はチェックアウト時間ぎりぎりまで、少しのんびりしようと決めた。
熟睡したものの、何となく寝足りない心持ちで、ならば急ぐ旅でもないし、これといって目指す場所もないから無理はしない。

それでも漠然と、南紀を目標に高野山から熊野を抜けてみようか、龍神温泉にでも寄って温泉三昧もいいな、などと思ったりもする。

結局、どこでもいいのだ。
非日常体験をミルフィーユのように重ねて、雑事に追われる日常の上書きをしたいと、人生の逃げを打っているだけ。

まったく馴染みのない土地はそれなりに新鮮で若干の緊張感のような思いも生じるが、馴染みの薄い土地でも、それに似たような感覚は味わえるものだ。

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そこで、ほとんど知らないJRの旧奈良駅を見物に行った。

本当は知らないわけはないはずで、かつて桜井線に乗って箸墓や巻向、大神神社などを歩いて回ったことがある。

それでも奈良駅の記憶が欠落しているのは、おそらく乗り換えのみで、駅頭に立ったことがないからだろうと思う。

国鉄当時は、日本中で特急が走っていないのは奈良と沖縄だけだったと聞いたことがあり、近鉄王国ならば、それも仕方ないことなのだろうと、その程度の認識しかなかった。
(現在のJRの特急事情は知らない)

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ここから話は飛ぶ。

昭和54年(1979)に奈良市此瀬町の茶畑の斜面から古代の墳墓が発見された。
その中から短冊型をした銅版の墓誌が発見され、太安万(萬)侶の名が刻まれていたことで、当時は大きなニュースになった。

興奮した。
記録にのみ現れ、歴史の授業で教えられていた人物が実在していたことに感動したのだ。

安万侶の実在が証明されたことで、マスコミは古事記の信憑性が立証されたと、こぞって報道した。
墓誌銘は以下の通り。

左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳


わかりやすく分解すると次のようになる。

住所   左京四條四坊
位階   従四位下勲五等
名前   太朝臣安萬侶
命日   癸亥年七月六日卒
埋葬日  養老七年十二月十五日乙巳

官位の従四位下は、押しも押されぬ立派な貴族である。

安万侶が実在したことで、連鎖的に自ずと稗田阿礼も実在の人物と、報道はエスカレートし、古事記の記載すべてが真正の内容と世間は了解した。

了解させたのはあくまでマスコミで、メディアの影響力の大きさにも感心した。

その反面、私のようなひねくれ者は、1が正しければ100まですべて正しいのかと、疑ってみたのだ。

疑ったところで、ならばここが違うなどの反証も反論もできないから、現在も何も言うことはない。

ただ言えることは、太安万侶が実在の人物であることは納得したが、墓碑には古事記に関する業績のかけらも記載がないから、安万侶と古事記がストレートに結びつかないもどかしさが残るのだ。

新聞報道の一部には、その点に触れた内容も載っていたと記憶していて、冷静に事実を凝視している新聞社や記者もいるんだと、バランスの取れた紙面構成に見入ったことを覚えている。

個人的には、万葉集は文学書、日本書紀は準歴史書、そして古事記はその中間に位置する記録との認識がある。

だから世間が大騒ぎするのを横目で、それでも興奮して、新聞各社の記事を読み漁った。

閑話休題。

なぜ奈良駅から太安万侶へ話が飛んだかというと、墓誌の最初に「左京四條四坊」とあった場所が気になり、それなりに調べたことがあったからだ。

ネットなどの登場はずっと後のことで、手元の書籍を当たったり、わざわざ本屋へ奈良市街地図を買いに行って、左京四條四坊とは、いったい何処ぞやと探してみたが、結局わからず仕舞いだった。

数年後の報道では、国鉄奈良駅のすぐ西側にある「私立白藤学園」の敷地を発掘調査の結果、建物遺構などが出土し、この場所が太安万侶の屋敷跡らしいと、ほぼ断定的に書かれてあった。

さっそく市街地図を広げると、そこの住所は三条で、左京四條四坊とは違うではないかと、こちらの住所の最後を「ベーカー街221B」と書き、新聞社に投書のひとつでも送ってやりたい心持ちになったが、そんな度胸もなく、浅学を晒す恥のリスクが勝り自重した。

長屋王邸跡には奈良そごうが建ち、やがて経営不振でヨーカドーに譲られ、それも閉鎖されて、何やら次の業種がすでに決まっているらしい。

着工当時、地下部分を造らないことで、極力遺跡破壊には配慮していますよ的テイストを前面に出され、余計に神経を逆撫でされた気分になった記憶が、今も鮮明にある。

千年後の未来人は、いったい何を目当てに発掘するのだろう。
千年前の古代人の愚かさを嗤うのだろうか。

「記録保存」は、絶対に保存ではない。
この造語が、多くの言葉のロジックの中でも絶望的に腹立たしい。

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奈良には鹿の他にカラスもいた。

こちらは神武東征の折に熊野から大和へ導いた鳥であるにも関わらず、鹿のような扱いはされておらず、人間が出したゴミを漁っていた。

これも建国説話の一部分であって、神武と崇神が同一人物であるとか、大王(天皇)の始祖は本当は継体であるとか、いつまでも賑やかなことである。

ここで私見を開陳してもいいのだが、一冊の本くらいの長さになるので控える。

伝説や伝承が時代を経て真実の衣をまとったり、歪曲されたり隠蔽されたりする中で、歴史学や考古学や地学などを総動員して推理するのは本当に楽しい作業である。

傍証と物証が一致するとスッキリするし、一層の知的好奇心が湧く。
錯綜した歴史の糸をほぐす行為は、それでも慎重であらねばいけない。

世が世なら八咫烏と崇められるはずのカラスは、人目も気にせず、食事に夢中であった。

リニア新幹線は奈良を通るのだろうか。
車の旅はまだまだ続く。

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