太田道灌と武蔵野


寛正五年(1464)、後花園天皇が後土御門天皇に譲位した。
この年に太田道灌が上洛し、後土御門天皇から拝謁を許された。

東国を知らない天皇は、道灌に「武蔵野とはどのようなところか」と、ご下問された。
道灌は和歌にして即答した。

露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原

関東平野の広大さも伝えたかったのだろうが、「武蔵野は?」と問われたのでコンパクトにまとめた。
それでも夕立の空より広い領地を誇りに思う心情が伝わる歌に仕上がっている。

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天皇は興味を示し、さらに問い掛ける。
「ならばその眺めはどのようであるか」

わが庵(いお)は松原つづき海ちかく富士の高嶺を軒端にぞ見る

これも即興である。
自宅から富士山が望めることを強調し、近くには松原が続く海(この場合は日比谷入江から続く江戸湾か)も見えますと、さらに風光明媚な土地であることをアピールした。

初句を「わが庵」で始め、結句に「軒端」を置いた歌は、東国の魅力を十全に伝えながら、さりげなく自宅周辺の住環境の説明にもなっている。

それでも自慢が嫌味にならず、逆に景色が浮かぶのは、歌詠みとしての道灌の優れた感性である。
ここで注目すべきは、「館」ではなく「庵・軒端」と謙遜したことで、武将でありながら、決して無骨ではない機微をもわきまえている事実だろう。

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ますます興味を持った天皇は畳みかけるようにご下問する。
「歌に詠まれる都鳥とはいかような鳥か」
東国といえば数多くの歌にも詠まれている都鳥(ユリカモメ)である。
知りたくなるのは当然だろう。
また、東国イコール都鳥、というほどの知識や認識しか浮かばない程度の土地でもあった。

年ふれど我がまだ知らぬ都鳥角田(すみだ)川原に宿はあれども

立て続けの質問攻勢に、道灌も頭の回転がやや鈍ったようだ。
前の二首に比べて、歌の出来はそれほど良くない。

だが正直である。
ここでも都鳥はまだ見たことがないと、無骨者を強調して謙遜している。

道灌が江戸城を築いたのは康正三年(1457)で、住まいの御殿を静勝軒と名付けた。
東を泊船と呼んだらしいので、これは江戸湾を指すと思われる。
西は含雪とし、もちろん雪を戴いた富士山のことだ。

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武蔵野の魅力を見事に詠んだ道灌の三首に対し、天皇の返歌がある。

武蔵野は高萱のみと思ひしにかかる言葉の花や咲くらむ

世辞を言うような立場ではない。
それだけに、後土御門天皇の御製は率直な感想となっている。
道灌この年32歳、拝謁は、こうして成功裏に終わった。

時の室町幕府将軍は第8代足利義政。
応仁の乱前夜である。
乱は3年後の、文明9年(1467)に始まる。


 ※ 読み直して駄文をじゃんじゃん削っていったら文章が1/3 に縮まり、講談調になってしまった。


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