寡黙な傍観者


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秋のお彼岸のお中日であった。
快晴の空は地上に穏やかな陽を注ぎ、新酒のような透明感で現世を満たしている。
そこには数輪の曼珠沙華が、燃えるような深紅の艶やかさで風に揺れていた。

こんな時は、中学生のような青臭さで、人生とは何ぞや、などと考えることがある。
年を経てふと振り返る十代の頃。
人はどこから来てどこへ行くのか…。

哲学書を読み漁っても、答えはどこにも提示されていない。
ただ「生と死」の付近を、付かず離れずの微妙な距離で周回しているだけだ。
答えは自分で見つけるしかない。
いや、どんなに考えを巡らせても、所詮は観念でしかなく、答えなどは無いのだ。
たぶんそうだろう…。

別名の死人草(しびとばな)とは可哀そうなネーミングで、この時期に咲く故に、人によっては嫌われる。
春の彼岸に咲く花も多いのに、理不尽この上ない。
それだけにいとおしく、贔屓の引き倒しをしたくなるというもの。
真っ直ぐに伸びた茎は、気の毒なほど正直であり、花が終わってから出る葉も、どことなく桜の風情で、臆病な自尊心と尊大な羞恥心をも感じさせる。

無縁墓がここ十年で二倍にも増えていると聞く。
団塊の世代が老い、比例して無縁墓が増えるのも確実だ。
誰もが語ることだが、人一人には二人の親がいて、二人の親には四人の親がいる。
単純に計算すれば、十代前は1,024人、二十五代前は33,554,432人で、ご先祖さまは現在の人口の約1/4にも及ぶ人数になる。
それだけの身内の死者がかつて存在し、そして今の自分が現世に存在している、なんとも形容し難い危うさと、得体の知れない強迫観念に満ちた浮遊感。
永遠なるものへの憧れなどは微塵もないが、心のどこかに一抹の哀調の旋律が聴こえる時もある。

こんなことを考えるのも、三ヶ月近く前に逝った年下の友人の心情を慮る気持ちがあるからで、人生の秋、一生の終らせ方を考えさせられる。
不信心な仏教徒であった友人は、おそらく一度も訪ねたことのない縁もゆかりもない土地で、母親とともに無縁としてクリスチャンの墓地に葬られた。
それが本意か不本意かは友人の関知することではなく、周囲の善意によって、終の棲家を与えられた。
およそ一年前から我が身の処し方を予測(予感ではない)していた節があり、自らを追い込んで、潔く、泥臭く逝った。
周囲から見れば愚かに映る厭世的な生き方も、友人にとっては人生を断罪する一本道だった。
他人がどうこう評論するものではない。

もうここで多くは語らないが、寡黙な傍観者として曼珠沙華を見ていると、友人への惜命と、自分の人生の終らせ方を垣間見た気になる。
さて、どう生きてどう死ぬか。
諦観かも知れず、狂乱するかも知れず、どのみち、人間一度は必ず死ぬのだ。
案ずることはない。

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二ヶ所の墓参を終え、和菓子屋さんでおはぎならぬあんころ餅を買って帰り、濃いお茶と一緒に頂いて人心地ついた。
(お皿に出して食べればいいのにね)

季節はいよいよ秋本番である。



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この記事へのコメント

やじろべえ
2014年10月03日 13:54
>臆病な自尊心と尊大な羞恥心
まさに言い得て妙の表現ですね。
飾らない美文でありながら、内省を的確に伝える文章力に脱帽。
タイトルの『寡黙な傍観者』も納得です。
偉そうにすみませんでした。
これから度々訪問させて貰います。
管理人
2014年10月03日 20:49
こちらの方がよっぽど偉そうで恐縮します。
駄文が大半なので、忘れた頃にでも訪ねてみて下さい。
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