一枚の写真が語ること


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一番左が私の母なのだが、撮ったのがいつかは分からない。
戦局が押しつまった昭和二十年とは考えにくいから、17年から18年にかけての撮影か。
いずれにせよ、十代半ばのものだろう。
馬鹿な私とは違い、尋常小学校入学から高女卒業まで、母の通知表は「甲」だけで埋め尽くされている。

母は、戦争について多くを語らなかった。
それでも私がまだ小学生の時に、訊いてみたことがある。
重い口で話してくれたのは、やはり三月十日の東京大空襲のことで、自宅は被災しなかったものの、それから一週間、友人を探し、城東地区を朝から日暮れまで探し回ったという。

もちろん、下町は一面の焼け野原で、運河や隅田川にはおびただしい死体が折り重なってゆっくりと下流へ流れ、かたや町中の各所ではチロチロと火が燃え続け、それこそ「死屍累々」の惨状だった。
黒焦げに炭化したおびただしい死体は性別も分からず、中には虚空を掴もうとするかのように、歯だけをむき出しにしたまま両手大きく広げ、誰に返り見られることもなく、放置されていたものもある。
それは死体と呼べるような姿ではなく、「もの」や「物体」にしか見えなかった。
赤ん坊を背負い、そのままの状態で焼け死んだ母子もいる。
中には、まだプスプスと体から音を立てながらくすぶっている死体もあった。

焼けたさまざまなものが散乱する道を歩いていた母は、何気なく焼け焦げた枯れ枝を踏んだ。
するとバナナの皮で滑ったように尻餅をついた。
それは枯れ枝などではなく、ちぎれて転がっていた人間の腕だった。
焼けたのは表面だけで、薄皮一枚下の、すぐその内側の油脂に足を取られたようだ。
血や肉の赤さはなく、脂肪の白さだけが目に飛び込み、思わず声にならない悲鳴を上げたという。

死臭には、なぜかすぐに慣れたという。
二、三日でそんな非日常の悲惨な光景も、当たり前のように感じ始めた。
あまりにも、それまでの現実から掛け離れて過ぎていたからだ。
それよりも、精神的なショックが大きく、神経がマヒしていたのだろうと、母は回想した。
亀戸の国鉄のガード下には、人の形をした影がそのまま、橋脚を支える石積みの壁にコントラストとして残っているのも見た。
人がいた部分は、そこだけが白く残り、焼夷弾を目の前で浴びたのではと想像したようだ。
その通りなのだろう。

友人たちの家のみならず、密集していた一帯の民家はすべて焼け落ち、数キロ先まで見通せたという。
探し続けた友人は、その家族もろとも、すべて亡くなったことを確認した。
身元も分からぬまま次々とトラックに積まれ、集団で焼かれるために去って行った大勢の人たちに比べれば、せめてもの幸運ではないかとも思った。
一家全員が死んで、幸運と思われるほど、空襲の被害は想像を絶していたわけだ。

母の口ぶりに、訊いてはいけない厳粛な何かを感じ、以後はその当時のことに触れるのはやめた。
他では、勤労動員先で終戦の玉音放送を聞き、不明瞭な音に内容が理解できなかったが、軍属の男性が数人、腕で涙を拭ったのを見て、もしやこれで戦争は終わったのではないかと直感したらしい。
母はもう何も語らなかったが、叔母に訊いたところ、写真に写っていた母以外の三人は、すべて空襲で死んだことを教えられた。

空襲後の実家は、家を失った身内友人知人たちの避難場所となり、ただでさえ狭い家なのに、立って半畳寝て一畳とはいうが、まさにその通りになった。
そんな状態が、ほぼ一年、戦後もしばらく続いた。
後はお決まりの竹の子生活で、買い出しでは、千葉、埼玉の農家などで、ずいぶん屈辱的な思いもしたらしい。

母も、戦争とはこれほど理不尽で悲惨なことなのだよと、私に伝えなければいけないと考えたのだろう。
だからこうして今も、私は覚えている。


母は、平成五年に死んだ。
死因は子宮がんだったが、その十年前に、ふと親孝行に目覚め、私はずいぶん親孝行の真似事をした。
どこへ行きたいと言えば旅行に連れて行き、何が食べたいと言えば、名店や老舗に連れて行った。
それだけが親孝行ではないのは承知だが、若い頃から苦労に苦労を重ねた母の、私と兄への優しさと愛情に思い至ったからだ。
こう書くと、ずいぶんきれい事になるが、母が素直でなければ、少しは反発することもあったかも知れない。
「老いては子に従え」を、そのまま実践した母だった。

いずれ母と同居するために私はマンションを購入し、設計変更をして、母のための和室も作った。
結局、同居は叶わなかったが、母が病いを得てからの二年間は、自分でも驚くほど介護に明け暮れた。
もちろん私一人の力で出来るわけもなく、せっかく母の部屋を用意したものの、母は強引に兄が引き取った。
私はといえば、母の通院や入院いっさいを引き受け、懸命の世話をした。
我が人生で、あの当時ほど、母に寄り添った時期はなかった。
日を追って、次第に口数が少なくなる母に、掛ける言葉が迷子になっていった。
それでも、以心伝心というやつで、私たち兄弟の思いは伝わったと信じている。


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今日は母の命日。
よりによってお盆に逝くこともなかろうと思うのだが、半年後には祖母も、春のお彼岸を待つように逝った。
これを現世への未練と取るのは簡単であるにせよ、そこには目に見えない二人の思いが込められているように感じるのは感傷に過ぎるか。
祖母は九十六まで生きて、年齢に不足はないものの、もし母が生きていたとしても、現在の日本女性の平均寿命にも足りていない。
それが残念だ。
改めて写真を見ていると、人生の意義や、生きる意味、そして避けられない世代交代などを刹那的に考えてしまう。
母を引き取った兄も、今はこの世にいない。

一年間しか年金を貰わなかった母。
五十一歳で逝き、一円たりとも年金を受給できなかった兄。
若すぎる死には、悲しみばかりではなく、社会や政治への不条理感が常に付きまとう。
もっといえば、写真の三人の分も生きてはいない母を無念に思う。
いま生き残っている者は、よりマシな社会を目指して頑張るだけ。
もちろん平和の恒久的希求も。
それが、口の重かった母から教わったこと。


送り火の線香を焚いて丁寧に合掌し、炎天下の墓所を後にした。

夜になって、もう秋の虫の声が聞こえている。


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この記事へのコメント

拾碌
2011年08月18日 05:56
戦争の悲惨さを語り継ぐことは、戦争を回避する有効な抑止力の一つです。
あなたが沢山のお年寄りから戦争体験を聞いているのも、そうした意志の表れなのでしょう。あなたが相手だからこそ語ってくれるお年寄りが多いのも、あなたの人柄と誠実さの証明です。
被爆体験、空襲体験を後々まで伝えるのは、現代を生きる我々戦争を知らない世代の大切な役目です。
その姿勢を見習い、私も実行したいと思っています。
きらら
2011年08月18日 19:48
お母様が亡くなられた平成五年は、今に比べて介護のレベルも格段に低かった時です。それを全く当てにせず、最期までお世話した管理人さんの優しさと愛情と、それに、いつもながら弱者への尊厳と敬意を大切にする思いが伝わる記事です。
お母様のオール「甲」の学力と知力がしっかりと受け継がれている事にも納得です。いつまでも私たち介護従事者のお手本でいて下さい。
また宮城へご一緒させて頂きますけど、よろしくお願いします。
(*^_^*)
管理人
2011年08月19日 12:27
褒めすぎ、買い被りすぎです。
知り合って長いのですから、もうそろそろ気付いてください。

今回も裏方に回って、皆さんのお邪魔にならないところで頑張りますので、こちらこそよろしくお願いします。
チョンボがあっても大目に見てください。
m(_ _)m
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