我慢が出来ぬ 我慢がならぬ


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東京は今年初めての猛暑日だとか。
病み上がりの体には堪える一日だった。

35度超えが猛暑日ならば、40度超えの日は何と表現するのだろう。
酷暑でもなし、激暑でもなし、熱暑でもなし、はて、40度超えが半日常になるやも知れぬこの温暖期、暑さここに極まれりと、俳句の季語にもある「極暑」とでも名付けるのか。

東京の過去最高気温は39.5度らしい。
しかし、やがて40度超えどころか45度超えが襲来する時代が待ち受けている可能性だって否定できない。
もちろん、ミレニアムスケールでの話である。

いずれ間氷期が訪れるのだろうが、それまで待てぬ、生きておらぬ。
だから極まなくてよろしい。

以前、埼玉県の熊谷出身の知人から聞いた話だが、暑いのは確かに暑い、でも夜は極端に冷える日も多かったと言っていた。
フェーン現象と放射冷却のダブルパンチで、よほど体力がないとしんどいとのこと。
夏は夏らしく、冬は冬らしくがベターなのだが、春秋が失くなりつつある現代での極端な気候変動は、私にとって恐怖以外の何ものでもない。

子供の頃の夏はどうだったろうかと思い出そうと考えてみるのだが、暑い夏をどう乗り切ったのか、どうしても思い出せない。
まだクーラーなどない時代である。
扇風機の前に陣取り、あ~、と声を発して遊んでいた記憶はある。
プールへも行った。
かき氷、スイカ、マクワウリ、麦茶、そうめん、うちわ、風鈴、すだれ、打ち水、etc、その程度の納涼の情景が浮かぶだけで、大した思い出はない。
「暑い暑いと言っても涼しくなるわけじゃないよ」と、ばあちゃんは言っていたが、そのばあちゃん、うちわでいつまでも私を扇いでくれていたことは思い出した。

その頃、親世代、祖父母世代の大人たちは、夏をどう乗り切っていたのだろう。
真冬のことだが、父に連れられて銭湯の帰り、こうやって手拭いをグルグル回してごらん、と言われ、父の真似をしたら、濡れた手拭いがピンと伸びて凍った。
まだずいぶん幼い頃だったから、午後7時かそのくらいの時間だったはず。
夏に限らず、冬だってずいぶん寒かったのだ。

とにかく、今日の東京は我慢が出来ぬ暑さだった。
日射病がいつの頃からか熱中症と名前を変え、今日も亡くなられた方がいたとか。
私はほぼ外で一日を過ごしている途中で次第に動悸が早くなり、息を吸うのもままならぬ過呼吸のような症状が出て、ずいぶん消耗した。
塩飴もなめていたし、清少納言お気に入りの「あまづら」ならぬかき氷も掻き込んだ。
しかしどうにもならなかった。

早々に帰宅し、冷水シャワーでクールダウンし、エアコンでやっと息を吹き返した。
でなければ、こうして死んでいくのかなと、命の危険すら覚えた。
人間なんて、案外あっけなく死ぬのだ。
だが、いま死ぬわけにはいかないので、エアコン様様である。

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医療技術の進歩や、暮らしに関する行政の変化や個人の対応や知識の集積とかの努力で、日本人の平均寿命が延びたことは間違いない。

私も文明の利器で救済された。
エアコンなどの生活家電の普及によって平均寿命が延びたことも確かだ。
しかし、この辺りが限界だとも思う。

東京のヒートアイランド現象が、平均寿命を追い越していることも大きなファクターである。

変貌する東京の姿を見るにつけ、東京はどんどん住みにくくなっている。
誰が東京をこのように造り替えてしまったのか。

ナメクジがのたくっていた土地には、お洒落で清潔な高層マンションが林立し、住まいは外界から隔絶、密閉された。
それゆえ、冬は火鉢や練炭が使えなくなり、夏の風物詩だった金魚売りや風鈴売りなどの声も消滅した。

東京への愛着が薄れていくようで悲しいのだ。
それが、我慢ならぬのだ。


昔の東京の夏はどうだったのか。
手っ取り早く、永井荷風の断腸亭日乗をパラパラめくって、夏の様子を調べてみた。
大正12年(1923)の夏を中心に、時候の部分だけを抜き出してみる。

六月廿六日
晴れて風涼し。

七月七日
曇りて風涼し。

七月廿七日
小庭の樹木年〃繁茂し、今年は書窗(しょそう)炎天の日中もなほ暗きを覚るほどになりぬ。

七月廿八日
炎熱堪ふべからず。家に帰れば庭樹の梢に月あり。清風竹林より来り、虫声秋の如し。

八月四日
風ありて涼し。

八月六日
午後遠雷の響を聞き驟雨を待ちしが来らず。七月二十日頃より雨なく、庭の土乾きて瓦の如くになれり。
窗前の百日紅夾竹桃いづれも花をつけず。

八月十四日
秋暑益(ますます)甚し。

八月十六日
晩風俄(にわか)に冷なり。

八月十九日
曇りて涼し。


以下、関東大震災当日の記載で転記を終わらせる。

九月朔(ついたち)
雨やみしが風なほ烈し。空折〃掻曇りて細雨烟(けむり)の来るが如し。日まさに午ならむとする時天地忽(たちまち)鳴動す。(以下略)



あまり参考にはならなかったし、暑さ対策も記されていない。
荷風もまだ若く元気だった。
暑さの質も違っていたのだろうと推測する。

文化勲章と大金を残し、やがてゴミ屋敷同然の千葉県市川の小さな家で逝った荷風に、現在の孤独死、無縁死の問題点の原型が見える。
思想信条なども含め、自分のライフスタイルに殉じたとはいえ、老残の身を憐れと思うだけでは、現代人の指針とはならない。
事態はさらに深刻度を増している。

心の庭に木を植え、鳥を呼び、花を育て、片隅で畑を耕し、それでかろうじて、いまを生きている。


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