千住宿


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久し振りに千住大橋のたもとに立ちました。
懲りもせず、また芭蕉の足跡を少しだけ歩いてみようと、旧日光街道の千住宿に向かいます。
まずは隅田川に最初に架けられた千住大橋を渡ります。
秀吉の命によって家康が江戸に入府し、その後間もない文禄三年(1594)に架橋されたとあります。
以後、江戸防備のために架橋は許されず、二番目の両国橋が架けられるまでは、およそ七十年近くの月日が必要でした。

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明治三十五年に発表された幸田露伴の「水の東京」には、明治も半ばを過ぎた頃の千住大橋付近の様子を知ることができる以下の記述があります。


千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当るをもて人馬の往来絶ゆることなし。大橋より川上は小蒸気船の往来なくして、たゞ川船、伝馬、荷足(にたり)、小舟の類の帆を張り艫櫂を使ひて上下するのみなれば、閑静の趣を愛して夏の日の暑熱を川風に忘れんとするの人等は、大橋以西、製紙所の上、川の南西側に榛の樹立こだちの連なれるあたりの樹蔭に船を纜ひて遊ぶが多し。橋の上下少の間は両岸とも材木問屋多ければ、筏の岸に繋がれぬ日もなし。およそこゝの橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇なく、石炭の烟、機関の響、いと勇ましくも忙せはしく、浮世の人を載せ去り載せ来るなり。

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夏には川風の涼を求めて、舟を浮かべていた情景が浮かびますが、時の流れは風景を変え、環境も変えてしまいました。
まさに、


 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也


です。
明治から現代までには、また大変貌を遂げ、露伴の時代からは想像もできない平成の光景が広がっています。


「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」で、いつも感じているのですが、この拙いブログにも、その意味や訳を調べるためか、検索エンジンからのアクセス(参照)が絶えません。
特に最近はアンドロイドからの訪問が多く、おそらく中学生か高校一年生くらいの諸君が、PCを開くより簡単に、机に向かいながら調べているのでしょう。

お役に立つかどうかわかりませんが、簡単に説明してみましょう。
でもこれは私的な解釈なので、あまり信用してはいけません。

文章は短い一行だけですが、間の読点「、」で、この文はふたつに分けて捉えるべきものです。
「月日」は誰にでもわかりますが、引っかかるのは「百代の過客」の意味らしく、学校や教科書には載っていないのかと不思議に思います。
これは「行かふ年も又旅人」と照応するものであって、同時に「月日は」にも掛かっている形容です。
「百代」は、単純に「時の流れ」の時間軸と解釈して構いません。
だから「行かふ年」と同様です。

もっと単純に読めば、「月日は百代の過客」は「行かふ年も又旅人」ですべて解説済みということがわかります。
要するに、前の比喩表現を「行かふ年も又旅人」で補完しているわけです。
出典は李太白の「春夜宴桃李園」の文中にある「光陰者百代之過客」で、芭蕉はこれを引用しています。
「光陰」は年月で、「過客」は「旅人」であることが、ここからもわかります。
現代の感覚からすれば盗用と思われがちですが、当時は中国や日本の古典文学などの素養が何よりも重要で、いわば義務教育で教えられるような内容といっていいでしょう。
ですから、芭蕉は自分の知識をひけらかしているわけではなく、この一節もごく当たり前の表現でした。


舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物(者)は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。


人は貴賎や職業に囚われず、誰もが時の流れとともに生きながら流転しているのだ、だから人はみな旅人なのだと、この部分は単純です。
「古人」とは芭蕉の場合、尊敬し、何度となく読み返したであろう李白や杜甫、西行や宗祇などの先人のことを指しています。
ここに並べたどの先人も旅の途上で客死しているので、私も旅の途中で死ぬだろう、いや、そうありたいものだと、芭蕉自身の「死にざま」も投影されています。
そのことが次の文章に表れています。


予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋、かうしやう(江上)の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川(河)の関こえんと、そゞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝひき(股引)の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

 草の戸も住替る代ぞひなの家

表八句を庵の柱に懸け置。



画像芭蕉はこの「おくのほそ道」以前に「野ざらし紀行」 「鹿島詣」 「笈の小文」 「更科紀行」などの紀行文を遺していますが、ほとんどが内陸や山中の旅であって、「ほそ道」では日本海を目の当たりにしたものの、海浜とは、郷里の伊賀往復の途中で見た東海道の海に限定されていました。
だからこそ漂泊の思いの目的として、「海浜にさすらへ」だけが特に強調されているのでしょう。
その目的の第一は、やはり松島や、まだ見ぬ日本海だったのではと思います。
「そゞろ神」とは、芭蕉の胸の中にある「気まぐれ心」という程度の意味です。
「三里に灸」は足が丈夫でありますようにと、足のツボにお灸をすえたのでしょう。
でも「おくのほそ道」は紀行文の体裁をとったフィクションの部分も多いので、実際にお灸を使ったかは不明です。
「取もの手につかず」の表現も、旅慣れた芭蕉にしては、やや誇張された表現です。
それだけ、旅への期待感が大きかったのだろうと解釈して置きましょう。


画像弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は有明にて光おさまれる物から、不二(富士)の峯幽にみえて、上野、谷中の花の梢、又いつかはと心細し。むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆといふ所にて船をあがれば、前途(せんど)三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

 行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。



「舟に乗て」と「船をあがれば」で、「舟」と「船」が出てきますが、誤記ではありません。
この使い分けに特別な意味はないでしょう。
「矢立」とは、真綿に墨汁を染み込ませた墨壺と筆でワンセットになっている当時の携帯用の筆記用具のことで、今回の紀行の最初に、こんな句を記しましたよ、という程度のことです。
しかしこの句は、旅を終えてから推敲に推敲を重ねて完成させたもので、本当は以下の句が矢立の初めとされているようです。


 鮎の子のしら魚送る別哉


元禄時代初期の、芭蕉には馴染み深い、隅田川の清らかな水を遡上する鮎の稚魚に別れを告げるとともに、見送りに千住まで来てくれた門人たちとの別れも重ねています。
私などのような俳句の素人には「鮎の子の」の方がわかりやすく思えてしまうのですが、鳥が啼くのは当たり前として、魚が泪を見せるという発想が当時としては画期的な表現で、魚に感情移入させたということも含めて、これは芭蕉自身の手柄というべきでしょう。


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ことし、元禄二とせ(年)にや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若(も)し生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸(やうやう)早加と云ふ宿にたどり着にけり。

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もちろん早加は草加のことで、文面通りに読めば、やっとの思いで草加宿にたどり着いたということになります。
曽良の随行日記でも明らかなように、この日は粕壁(春日部)まで歩いたことは、誰もが知っています。
千住から草加までは、私はまだ歩いたことはありませんが、地図を見ると、およそ10キロくらいでしょうか。
芭蕉研究者の中には、やはり初日は草加までが正しいという意見もあるようです。

それよりも、問題は「元禄二年にや」の「にや」です。
これは「弥生も末の七日」とわかっているにも関わらず、何故か疑問形です。
「元禄二年だろうか」と書かれては、どう解釈すればいいのやら混乱します。
ここからはあくまで私見ですが、旅立ち早々に「これは紀行文の体裁を採っているけれど、フィクションも含んでるんですよ」と、芭蕉がさり気なく提示した表現なのではと想像しました。
俳諧を文学にまで高めた芭蕉ですから、こちらもそのつもりで正確に読まなければ、俳聖が仕掛けた「からくり」を見逃してしまう恐れがあります。
これこそが古典文学である証明のようでもあります。


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日光街道であり、奥州街道と水戸街道の起点でもある千住は、荻生徂徠によって大江戸八百八町の北限と定義され、宿場町の面影を探すのは難しいものの、現在の賑わいを見ながら、「はて、当時の道幅と同じだろうか」との疑問も湧いて来ます。
この幅では、参勤交代の行列などには対応できないのではと、素朴な疑問を抱きました。


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千住名物の「槍かけだんご」まで歩き、そこから今度は東へ常磐線に向かいます。
なかなか時間が取れず、いつも千住止まりなのが残念で、今回もここまでで終わりです。
「おくのほそ道」完全踏破への道のりは、月までの距離以上に遠く感じます。
後は老後の楽しみに取って置きましょう。

※ 現在「槍かけだんご」は建て替えのため休業中だったので、数年前に撮った画像を載せます。
 食べられなくて残念。


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北千住駅への途中に「めやみ地蔵尊」なる小祠があったので、簡単にお参りをしました。
実は、金環日食を専用のメガネではなく、サングラスを3個重ねて見てしまったのです。
何の障害もなく、はっきり見えました。
でも念のため。


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駅まで戻って来ました。
今回は芭蕉の足跡の、ほんのわずかな距離というには、あまりにも短すぎるし、気が引けて恥ずかしいのですが、「おくのほそ道」探訪というよりは、ちょっと時間があったので散歩しましたよ、ということでお茶を濁します。
忙しく動き回っている間の、たった一時間程度の千住宿でした。
また機会があれば、今度は草加まで歩いてみましょう。




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