長崎原爆忌


この写真を知っている人は多い。
けれど、撮影者のジョー・オダネルの名を知る人は少ないだろう。
彼は米軍の従軍カメラマンとして敗戦直後の日本の地を踏み、爆撃による被災地の状況を記録するために、広島や長崎などを訪れた。
彼は職務に忠実だった。
一台のカメラで被害状況を克明に撮影した。
上層部からは、人物を撮ることは固く禁じられていた。
しかしその職務とは別に、彼は私用のカメラも持参しており、被災した日本人も密かに撮影していた。
けれどそれは明らかな軍紀違反であり、帰国後も決して公にすることはしなかった。
終戦から約半世紀、彼は突然目覚めたように、この写真を発表した。
これは長崎での一枚。
タイトルは「焼き場に立つ少年」

昨年(2007年)、小さな記事がジョー・オダネルの死亡を伝えた。
写真発表後、来日した老齢のオダネルはこの少年を探したが、手掛かりがまったくないまま帰国している。

画像


ジョー・オダネルのコメントが残っている。


佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。

少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年の
まだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。

< 1999年 朝日新聞社発行 「写真が語る20世紀 目撃者」 より抜粋 >


「原爆投下は間違いだった」
彼は半世紀を経て転向した。
しかし、被災直後の惨状を目の当たりにしたオダネルの思いは、アメリカ国内ではいまだにマイノリティである。
だからかどうか知らないが、日本国内でもそれに追従するように、「原爆投下は仕方なかった」と言う政治家や政治活動家が現れる。

オダネルの意思は息子へと受け継がれている。


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