乙巳の変が変だぞ


駐車場探しに難儀したが、今日の最後は伝板蓋宮跡とした。
「古代史」や「飛鳥時代」で行政が多少とも潤っているなら、もっと観光インフラの整備に力を入れるべきじゃないのか? と思ってはみたものの、狭い盆地の明日香では、どこを掘っても貴重な遺跡や遺構が隠れているので、やはりこのまま現状が良かろうと考え直した。

しかし物証ばかりに囚われて遺物や出土物に固執すると思考範囲が狭くなり、見当違いの方向へと岐路を誤る恐れもあるので断定は禁物である。

その場所に立って、その時の感覚や感情で物事を考えると、その現実にしか考えが及ばず、結局はその場所での結果を全てにしてしまうが、頭を冷やして違う場所から再考すれば、その時の考えは果たして正確なのかと気付くものだ。

だから100%の確証が得られない限り断定すべきではないし、過去の遺跡などには必ず「伝」を頭に、枕詞の感覚で付けなければいけない。

10代の頃に明日香の民宿に連泊して、もっとちゃんとした宿泊施設があればと感じたが、明日香はいくつもの規制の網で覆われ、現状変更を拒んでいる。
これでいいのだ。

発掘調査が終了したら埋め戻し、遺跡保存と現状維持を心掛けるのが、正しい発掘の姿勢だと思っている。

画像
例によって、中学生が理解できる程度の内容で話を進める。

皇極四年六月十二日(645年7月10日)、この場所がクーデターの舞台になった。
現在で言えば、ここは皇宮(皇居ではない)であり、板蓋宮と呼ばれていた。

当時の建物の屋根のほとんどは檜皮葺、草葺、茅葺、藁葺だったので、板で葺かれた屋根は最先端の建築工法だった。

とはいえ、日本書紀の記述などに記されているだけだから、厳密に表現するなら、これも含めて伝板蓋宮と呼びたい。

施主は、舒明の崩御により即位した妃の皇極、施工者は施主直々の指名で、大臣の蘇我蝦夷。
完成は643年で、石敷なども含めて、約八か月を要した。

さて、クーデターの当日である。
新暦にすると7月10日は梅雨の時期だった。

この日雨ふりて滾水(いさらみず)庭に溢(いわ)めり

書紀の記述だが、晴雨まで偽るとは思えないので、かなりの降雨量だったことが知れる。
中大兄は宮への出入りを規制した。

中大兄式衛門府一時倶鏁十二通門、勿使徃来

皇宮には12の門の存在したとあるので、かなりの規模の宮だったことがわかる。
その門を閉ざし、いよいよ暗殺の決行である。

画像

以剣傷割入鹿頭肩
子麻呂運手揮剣、傷其一脚


中大兄は、太刀を入鹿の頭から肩にかけて斬りつけ、子麻呂も続いて片足を斬ったことになっている。
鎌足はこの時、傍観者であって実行犯ではない。

入鹿転就御座、叩頭曰
当居嗣位、天之子也
臣不知罪
乞垂審察


手負いの入鹿は皇極ににじり寄り問うた。
「なんでやねん!」

最近の流行言葉で言うならば「男女の関係」にあったと推測される皇極は、「わたし、何も知らないっ!」
知らないのも当然で、皇極と入鹿だけがこの計画を知らなかった。
以前からこの予兆を感じ、それなりに警戒を怠らなかった入鹿も迂闊だった。

天皇即起入於殿中

絵に虚飾があるのは後世の作だから仕方ないとしても、皇極が、これはもう駄目だと、踵を返して奥へと逃げたのは事実だろう。
天皇の称号は天武以降だから、この文章はおかしいだろうと思うが、書紀にしろこの絵にしろ、まるで見て来たような仕上がりである。

講釈師、見て来たような…。
であるが、リアル感の強調を表出させるには問題ない。

佐伯連子麻呂、稚犬養連網田、斬入鹿臣

子麻呂と網田が入鹿のとどめを刺した。

飛鳥寺の西に、入鹿の首を埋めたとされる上に五輪塔があるが、塔は鎌倉時代のものであり、首など遺っているはずもない。
暗殺現場から直線で500メートルも離れた場所に首が飛んだなどは、眉に唾つけて聞き流した方が、記憶や知識の無駄遣いをせずに済む。

以席、障子覆鞍作屍

入鹿の遺体は近くの庭に投げ捨てられ、莚を掛けられた。

息子入鹿惨殺の報せを聞いた蝦夷は、天皇記と国記を焼いて自害、蘇我の本家は滅亡した。
(クーデターに協力した分家筋の蘇我倉山田石川麻呂なども、やがて中大兄によって殺害される)


ここから本題に入るつもりなのに、以上、ずいぶん長く書いてしまった。
時代は「丁寧な説明」と言いながら、説明しないという世情に逆行しているが、ちと、説明が丁寧すぎた。

一説だが、乙巳の変は、上宮王家(厩戸-聖徳太子-の息子、山背大兄一族)を断絶させた入鹿への復讐とされている。
同時に、崇峻を暗殺した馬子への怒りとの説もあり、ごもっともな推察ではあるが、改新や改革の美名を強調するあまり、書紀の記述が所々でずいぶん勇み足をしている印象がぬぐえない。

天皇記と国記が焼かれてしまったことにすれば、新たな天皇記や国記が堂々と作れる。
それらは写本があったはずで、おそらく血眼で徹底的に探し出され、ことごとく焚書されたのだろう。

事実、中大兄(天智)の娘の鸕野讚良(持統)と、鎌足の息子不比等の共同作業によって誕生したのが日本書紀で、どうしてもクーデター成功組の主張が柱になる。

蘇我氏が天皇に取って代わろうとしたからとか、書きたい放題に書けるわけだ。
天安門事件とて、千年も経てば歴史から抹殺されるだろう。
同じことである。

入鹿惨殺の場面で中大兄は、叱責する皇極に、入鹿は上宮王家を滅ぼし、天位を傾けようとしている、どうして貴い血脈を蘇我氏に置き換えることができましょうか、と述べたことになっている。

蘇我が物部を滅ぼし、中大兄が蘇我を滅ぼし、復讐の連鎖による血の行政改革は止まったかに見えるが、天皇(大王)候補は蘇我系に限らず、多くの人材が存在した事実は巧妙に消去され、野望の粉飾ばかりが際立っている。

蘇我氏の全盛期は稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代だが、渡来人を重用し、厩戸同様に隋や唐、高句麗、新羅などとは友好関係にあった。

そこへ中大兄が実権を握ると百済一辺倒の外交を推し進め、結果はご存知の通りである。
外交音痴が露呈し、防禦施設の構築や防人の動員などで、次第に国は疲弊してゆく。

日本書紀編纂は天武の発案だが、天武が薨去した後は、天智の娘の持統の思うがまま。
天智系の正当性と中臣一族の威光をいくらでも脚色できる。
以後の藤原(中臣)氏繁栄を見ればわかるが、大伴氏など、出る杭は必ず打たれている。

そして今回、一番重要なことを書くが、どこをどう調べても、万葉集に蘇我一族の歌は一首も入っていない。
大王(天皇)から農民まで幅広く採録されているにも関わらず、これはどうしたことか。

天武は稗田阿礼の記憶力の良さに助けられて古事記の編纂を命じた、いわば言い出しっぺである。
しかし何故か、古歌を記憶していた人物は一人としていなかった。

たかだか半世紀前の六世紀初頭、倭の五王(倭王武)とされる大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと=雄略)の名前はそこそこ簡単に思い出せても、和歌は知的創作作業だから、捻り出せなかったのだろう。

話は前後するが、中大兄と鎌足が打毬(蹴鞠ではない)で知り合った法興寺は、馬子創建(推古も関与した)の飛鳥寺のことである。

画像


  多武峰山中で談合真っ最中の二人。 

画像

天武薨去が朱鳥元年(688)、日本書紀の編纂が養老四年(720)で、天武死後から完成まで30年以上経っている。

天武の皇子である舎人親王が関わったにせよ、所詮持統の実子ではなく、この辺りの持統のシビアさは、実姉の大田皇女の子であり、天武の第三皇子の大津皇子を冤罪で自害に追い込んだ事実があるので、舎人親王は持統のまぎれもない傀儡でしかなかった。

やがて、高級貴族は源平藤橘に収斂されてゆく。

歴史に i f はないが、もし天皇記や国記が遺っていれば、邪馬台国や古代大王(天皇制)の真実や厩戸の詳細な事績も記されていたはずで、日本史は大きく変わっていたことは疑いの余地がない。
惜しいことだ。

今回は乙巳の変で伝板蓋宮として話を進めたが、天武、持統の王宮であった飛鳥浄御原宮伝承地と同一である。


埋蔵遺跡や遺物の深さまで杭を打つわけでなし、もう少し駐車場の整備くらい進めて頂けると中高年には有難い。
この歳でレンタサイクルはしんどい。



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント