あの頃


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日比谷の帝劇から移動しようとすると、地下鉄か都バス、あるいはJR有楽町駅の選択肢がある。
東京駅へ行きたいので、どれも一区間。
ならば徒歩という方法もある。
一時期の寒さも若干やわらぎ、丸の内を歩いて東京駅に向かった。
この界隈は、遡れば日比谷入江と呼ばれ、江戸時代には埋立地だった場所で、南北の勘定奉行所や評定所が置かれたところ。
維新後は国有地(官有地)になり、やがて岩崎家が買い取ってからは、三菱の大元締めともいうべき総帥の地になった。

思い出すのは、昭和49年(1974)に、東アジア反日武装戦線「狼」によって、テロの標的にされた三菱重工爆破事件。
東アジア反日武装戦線の名は、「腹腹時計」でしか知らなかった。
8月30日、サラリーマンたちの昼休み時間のことだったと記憶している。
ビルのガラス窓が大量に降りそそぎ、多数の死傷者を出した。
逃げまどう人や、血に染まったYシャツ姿の男性など、その時のニュース映像が今でも鮮明に脳裏にある。
記憶では、即死5人、合わせて10人近くの人が亡くなったと思う。
昭和史に残る無差別爆弾テロ事件だった。
もちろん極左の犯罪で、世間を震撼させた凶悪犯罪であった。
連合赤軍による浅間山荘事件から2年半後の凶行で、日和った極左たちの、最後の足掻きだった印象もある。
怪我などの犠牲者が多く、「革命」に民間人を巻き込む思想の愚かさには一片の共感も覚えなかった。
極端なイデオロギーに未来など無いことも同時に、社会全体に知らしめたことは間違いない。

この三菱重工爆破事件から約半年後、同じ丸の内でも少しだけ場所は離れているが、農協ビル(現JAビル)内のホールでコンサートを行なった。
今ならばわずか半年と思うけれど、当時はテロのことなど頭の中にはまったく無かった。
学生運動には多少の関心はあったものの、爆破テロ事件などは別世界、異次元の出来事という感覚だった。
ここで以前のエントリーの続き(参照)になるのだが、そのおよそ三ヶ月後に、再びライブを決行することとなった。
下のポスターはその時のもの。
共演した女性デュオは仲が悪かったようで解散し、片方のお姉さん(いわゆる芸名?で、本名ではない)だけから声が掛かった。

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こちらはただ演奏が出来ればそれだけで満足していたから、別に断る理由もなかった。
いわば遊び半分。
ところがこのお姉さん(我々より3歳年長さん)は、ガチガチのプロ志向で、ライブ(当時はコンサートと称していた)の計画も本格的。
だからこんなポスターも、いったいどこに張ったのか、500枚も印刷したという。
そりゃ大した意気込みだと、相棒の渋谷君と顔を見合わせた。
よくよく訊いてみれば、こちらをバックバンドとして、たっぷり歌を聴かせたいのだそうだ。
それはいいが、欲をいえば、外されたもう一人の女性(こちらは我々と同年齢で鹿児島出身)ならば、すこぶる可愛くて、もっとヤル気が出るというもの。

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農協ホールのキャパは、およそ500人。
自己陶酔的なプログラムも、しっかり出来あがっていた。
演出は舞台中央でお姉さんがハンドマイクを持ち、ひたすら熱唱するリサイタル形式。
我々はバック演奏に徹するというものだった。
まあ当然なのだろうが、私と渋谷君のアコギ2本だけでは大ホールでのバックは成立しないということで、友人(素人)二人を誘った。
これでエレキギター2本、ベース、ドラムの4人で、急ごしらえのバンドを作った。
バンド名は前回共演した関係もあり、そのまま「らん」を名乗った。
というより、すでにもうポスターとプログラム、チケットもすでに印刷済みなので、変更の余地はなかった。

ここで余談をちらほら。
ナレーションの西依さんは、以後NHKなどでも活躍した、すっごく優しくてきれいな人。
マネージャーの大熊さん、この人もまたすっごく優しくて、私の大好きな色っぽい憧れのお姉さん。
東京アナウンスアカデミーは現在もあるのかは分からないけれど、アナウンサーやナレーター、声優を目指すお姉さん方に誘われて、よく恵比寿までお茶しに通ったものでした。
余談終わり。
m(_ _)m

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三ヶ月弱でこれだけの曲を演奏しなければいけないので、原曲のアレンジや音程の変更も考慮しなければならず、かなりタイトな期間だった。
おまけに、お姉さんが登場する時や、途中のおしゃべり用にと、インスト曲も作らなければいけない。
メンバー紹介の時は、それぞれのパートを目立たせるために、各自12小節分のアドリブを聴かせる曲作りもしなければならなかった。
だからすぐ近くで起こった半年前の爆破テロ事件などは、まったく意識にはなかった。
目の前にある課題を、とにかく期限までに完了させるしかない。
それでも何とか出来たのは、ヒマだったからに他ならない。


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12ページある台本までしっかり用意されていた。
こっ恥ずかしいタイトルは噴飯物だが、すべてお任せなので仕方がない。
それでも私はこの頃から、本格的にエレキベースも弾くようになった。
(当時もバカだったから、意味もなくアラン・ドロンと張り合ってます)


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台本によると、お姉さんはハンドマイク片手に客席まで下りて一周し、観客を巻き込んで歌うという、何とも迷惑な演出になっているが、さて実際はどうだったのか、今はまったく思い出せない。
演奏はといえば、ミスした記憶もないので、そこそこの出来だったのだろう。
当時の録音や写真がないのは、まったく関心が無かった証しのようなもの。
主役のお姉さんは、今でも所持しているのだろうか。
このお姉さん、出身は宮城県の岩沼市なので、東京での夢破れ、きっと地元で主婦でもやっているのだろう。
被災していなければいいのだが…。
五輪真弓と森山良子が大好きなお姉さんだった。

何も音源がないので、高校時代にボーカル担当の渋谷君が自宅に遊びに来た時に、即興で作った曲で誤魔化そう。
今となっては意味不明の歌詞だが、二人とも、何か鬱屈した感情を持て余しているアブナイ時期だったようだ。

 


 あの頃

                 あ の 頃

                             詩  ら ん
                             曲 管 理 人

         これが地獄と云う奴だ
         俺は考えた事もなかった
         ただいつも通りメシを食って
         気軽に女を思い切り抱いて
            そして吐き出す汚れた脳味噌
            あの頃は違っていたんだ ホラ
         よく見ろよ 笑っているぜ よく見ろよ ホラ

         そうさ とてもいい感じだよ
         今日もこうして楽しく笑える
         当たり前すぎるお前だから
         笑ってゴマ化すしかないんだ
            これが幸せとやら云うんだろう
            気軽に女を思い切り抱いて
         それで何もかも始まるんだろう ホラ

         殴り殺せば済む事だろう
         笑わせるんじゃないぜ お前
         金さえ出せばそれで終わり
         なんてくだらない奴だろう
            何か出来るはずだよ ホラ
            ばかに湿っぽくなって来て
         そのあとで笑うんだろう ホラ

         お茶を濁しているんだ ホラ
         手を出してもいいんだ ホラ
         これが地獄と云う奴だ
         気軽に女を簡単に棄てて
            狂ったように わめき散らす
            あの頃は違っていたんだ ホラ
         よく見ろよ 笑っているぜ よく見ろよ ホラ



その後、また「らん」は渋谷君との二人きりに戻り、しばらくはアコギ2本で、お姉さんのバックをあちらこちらのライブハウスで務めた。
二人とも歌がヘタだったから、ギターに専念できる楽しさと気楽さだけが心地良かった。
ライブハウスだけではなく、地方巡業のようなことも演った。
今でもはっきり覚えているのは、二泊三日(夜行バスだったので車中一泊)のスキーツアーだ。
場所は赤倉温泉スキー場のホテルだった。
お姉さんのマネージャー(コンサートをディレクションした男)が取って来た仕事で、言われるがままツアーに同行したが、ツアー客の夕食後に、そのままホテル食堂のステージで演奏をした。
この時は一時間あったので、渋谷君と二人で「らん」としてオリジナルを数曲披露した。
部屋に戻ってから、
「オレたち、何でこんなとこまで連れて来られちゃったんだろな」
と我に返ってぼやいたたことも、今となっては懐かしい。
ただ、バスはホテルに横付けだからと聞いて安心していたのにそれは嘘で、ホテルは意外と駐車場から遠かった。
ジーンズにスニーカーでは寒いし滑るしで、何度もコケそうになった。
自己主張も大切で、どこだか場所は忘れたが、山陰地方(たぶん鳥取か島根)にあるデパートの屋上で、何かのぬいぐるみショーの合い間に演って欲しいとマネージャーから頼まれた時は、さすがに断った。

こんな調子だから、まず渋谷君が愛想を尽かした。
私だって同じ思いだったけれど、お姉さんとの繋がりが切れるのが嫌で、しばらくは彼女の歌とヘタクソなギターのバックで、独り、リードギターを弾いていた。
別にこのお姉さんが好きだったわけではない。
どちらかといえば気が強く、私の苦手とする性格だった。
態度には出さなくても、そこは雰囲気が伝わるのか、お姉さんも私をあまり快く思っていなかったようだ。
ただ便利に使われていただけの気がする。

話はここからが本題のような内容になるのだが、お姉さんには、年下の女友だち(私と同年齢)がいた。
要するに、その女友だちを好きになってしまったということ。
偶然なのかは分からないが、その女性は農協ビルの隣のビルで働いている超一流企業のOLだった。
都内で演奏する時は、お姉さんの友人ということで、必ずといっていいほど現れた。
その彼女を、ここでは仮にT子として置こう。
ほとんど会話することもなかったが、T子も私に好意を持っていることが何となく分かった。
これは自惚れではなく、本当のこと。
大学入学後に以前の彼女と別れて、もう恋なんかしないんだろうなと思っていたのに、また懲りずに恋をしてしまったのだ、愚か者めが。
T子と本格的に付き合えるようになって、やっと歌のお姉さんとの縁が切れた。
残念なのは、渋谷君とも疎遠になってしまったことか。
彼の家は近所だったが、T子と二人だけの空間を確保したいがため、私は実家を出てアパート暮らしを始めたからだ。
今になって思うのだが、女は男の人生を狂わせる。
紳士諸兄よ、夢々油断召されるな。

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頭が悪いから仕方ないのだが、ワールドワイドを忘れてプライベートを書き過ぎた。
ブログの落とし穴だ。
今年は浅間山荘事件から40年。
あの頃には関心がなかったことにもやがて関心が向き、そしてまた現在は関心が無くなっている。
東アジア反日武装戦線による丸の内三菱重工爆破テロ事件は38年前。
38年前、この通りは修羅場と化した。
資本主義がいつの間にか疑似資本主義に変質し、社会も大きく変わった。
イデオロギーも陳腐な過去完了名詞となり、世界経済は混乱の極みにある。
人は人間ではなく、単なる労働力としか認識されないことがパラダイムになった。
どの時代を生きていても、必ずどこかが狂っている。
そう、あの頃だ。
大逆事件から近代の冤罪事件が始まり、同じように、近代化の象徴でもあったはずの足尾や水俣などの問題が露呈した。
もちろん原発も同様。
大震災後には特に顕著だが、何もかもがレストアされない時代を我々は生きている。
結果は別にして、それでも私個人は、数十年前の今日、3月4日のあの日、そしてあの頃が人生で一番楽しい時代を生きていた気がする。
醒め際の夢の如く、残酷なほど思い出だけは永遠に美しい。


おまけ
ピンボケながら、当時の写真を発見。
場所は記憶に無し。
渋谷君のボーカルを今一度、聴いてみたい。

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