比喩と倒置法


東京マラソンの日の夕方は、月島や佃の銭湯が満員になるという。
走り終えた市民ランナーたちが、帰る途中で汗を流すからなのだろう。
完走した人も、残念ながら断念せざるを得なかった人も、本当にご苦労さまでした。
それぞれが、何かしらの思いを秘め、強い意志を持って参加しただろうことは容易に想像できる。
ルソーの言葉だったか、
「生きるとは呼吸することではなく、行動することだ」
と言った。
たかだか、ひと駅区間を歩くくらいで済ませてしまう私には出来ないことで、そりゃ、練習を積んで立ち向かえば可能かも知れないけれど、もし行動するとしたら、おそらく違うものに向かっているだろう。
それでも、自分の体力や精神力の限界を知るのは、これからの人生を生きていく上で重要なことであり、私から見れば、充分すぎるくらい尊敬に値する意志だ。

それらを支えている原動力の根源に関心が向く。
ある人は、これを完走できれば、これからの人生が拓けるのではとの期待や願望で走り、またある人は、その人にとって宝物のような座右の銘によって、観念を行動力に変換させる。
釈尊は占いや迷信を戒めているが、お百度を踏んだり、何かに願掛けする行為やジンクスを守る人にとっては、切実な行為である。
たとえそれが、靴は必ず右足から履くなどのジンクスや、願掛けの酒断ち、茶断ちというようなものであっても変わらない。

私の友人たちの数人は、自分お気に入りの座右の銘や名言、格言をある程度の心の支えにしている。
あいにく私には、そのようなものはない。
昔のことだが、好きな言葉は「大盛りカツ丼」とか「お替わり自由」とか「もっと召し上がれ」だった。
情けない…。

己を鼓舞する、克己、努力、友情、信念、などに飛びつくのは、東京タワーや仲見世のお土産グッズに必ずといっていいほど添えられていたことでも分かる。
これなどは小学生が好んで買い求めたペナントや、卓上カレンダーに見ることができた。
そして、名言や心に残る言葉というものの99%が、比喩と倒置法で綴られていることに気づいたのは、中学生の時だった。
ちょっと拾い集めてみた。
拾い集めて温め合うのは「襟裳岬」の歌詞であって、名言で温かくなるかは別問題だ。
先ず最初の一行から、比喩と倒置で始まっていることが分かる。

人生は道路のようなものだ、一番の近道は大抵一番悪い道だ

人生は物語のようなものだ、重要なのはどれだけ長いかではなく、どんなに良いかということだ


人生とは何ぞやという命題で、比喩として道路や物語をポンと提示し、この倒置法によって、後に続く言葉に説得力を持たせる。
これがいわゆる「名言」であり得る絶対必要条件になる。
この体でいけば、何でも即興で「名言」らしき言葉が量産可能になる。

人生は希望と絶望の二頭立て馬車のようなものだ、とか、人生は上流の石のようなものだ、など、いくらでも作ることが出来る。
その後に、本当に言いたかった言葉を添えれば、それで完成する。
人生楽ありゃ苦もあるさ、と繋げられるし、下流に行くにしたがって石は丸くなる、で締められる。
他にも、人生は角砂糖のようなものだ、とか、人生は蓄音機のようなものだ、などを使って、時間さえあれば大量に創作することも可能だ。
名言とは、案外、安直に作れるんもんなんだなと思う。

人生は全て次の二つから成立している、したいが出来ない、出来るがしたくない

これはゲーテの言葉だが、倒置法を使わなければ以下の文章になる。

人生は全て、したいが出来ない、出来るがしたくないの二つで成り立っている

名言らしさが薄れ、印象には残りにくくなる。
もう一つ、今度はジャンヌ・モローの言葉。

恋愛はポタージュのようなものだ、はじめの数口は熱すぎ、最後の数口は冷めすぎている

ポタージュでなければいけない理由は何となく分からぬでもないし、コーヒーや紅茶よりは適切な比喩だろう。
それでもポタージュではなく、グラタンやドリアなどの選択肢もあったはず。
日本流にすれば、ぐつぐつと煮えたぎるスッポン鍋や、お汁粉で代用が可能だ。
それでも、比喩は直喩にはない手軽さで使われていることが分かる。
逆説もまた然り。
ツルゲーネフの言葉。

金は天下の回りものだ、いつもこちらを避けているのが気に食わないが

「いつもこちらを避けているのが気に食わないが、金は天下の回りものだ」にしてしまっては、軽い立ち話程度にしか印象は残らない。
では、比喩と倒置法を使った「名言」を羅列してみよう。

金は肥料のようなものだ、ばら撒けば役に立つが、一ヶ所に積んで置くとひどい臭いがして来る

恋とは甘い花のようなものだ、それを摘むには恐ろしい断崖の端まで行く勇気が必要になる

噂とはいい加減なものだ、大抵、噂の方がよく出来ている。

人間は幸福であるだけでは充分ではない、他人が不幸でなければならない

クロスワードと女は似ている、難解なほど楽しい

人間には不幸や貧乏か勇気が必要だ、さもなくば人間はすぐに思い上がる

贅沢は海水に似ている、飲めば飲むほど喉が乾く

結婚は鳥籠のようなものだ、籠の外の鳥は餌が欲しくて中へ入りたがり、籠の中の鳥は空を飛びたくて外へ出たがる

人生はB級映画のようなものだ、途中で見るのをやめようとは思わないが、二回見ようとも思わない

頭のいい人は恋ができない、恋は盲目だから

人間はどんなところでも学ぶことができる、知りたいという心さえあれば

人生は面白い、何か一つ手放したら、それよりずっと良いものがやって来る

人間はあらゆるものを発明することが出来る、但し幸福になる術を除いては

毎月少しずつお金を貯めてみろ、そうすれば年末には驚くだろう、あまりの少なさに

女房と財布は隠して置け、人に見せると借りられる恐れがあるから

自分には一生やって行けるだけの財産がある、何も買わなければ

女たちは象と同じように見える、眺めるのは好きだが家に欲しいとは思わない

愛する者と一緒に暮らすには秘訣がある、それは相手を変えようとしないことだ

美人は何故つまらない男と結婚するのか、それは賢い男は美人と結婚しないからだ

醜い女はいない、しかし、どうすれば可愛いらしく見えるかを知らない女はいる

女を動かすものは三つ、利害と快楽と虚栄である

天国はとても良い場所のようだ、行った人が誰一人帰って来ないのだから

死ぬことは悪くない、死について考えることから解放してくれるから


飽きたからもうやめるが、「天国はとても良い場所」にせよ、最後の「死ぬことは悪くない」などはシニカルな逆説の最たるもの。
人は出逢いで人生を拡げ、別れによって人生を深める。
友人や恋人との出逢いや別れなどは、それでも良かろうが、しかし現象としての「死」となると、そんなに表層的なものではない。
私が無駄にした今日は、間違いなく、亡くなった人が生きたかった明日である。
観念に走り過ぎるていることは百も承知で書くのだが、死はすべてを無にするけれど、生き残った者の記憶に生き続ければ、実は、死とは無ではないことが分かる。
人が本当に死ぬのは、人から忘れられた時だ。

今日は親友の三回忌。
もう二年が経ったのか、まだ二年しか経っていないのかの感覚は未だに曖昧だが、午前中に血圧が急低下し、一般病棟から急きょ個室へ移動した。
一時は持ち直して周囲を安心させたものの、夕方から再び低下、意識レベルも血圧に同調し、混濁した。
そして家族に見守られながら逝ったのが、午後10時30分。
親友のマラソンは、立派な、そして静かなゴールだった。

その時間には線香を灯そう。
みっともないことだが、5秒で泣ける。
何故ならば、決して忘れてなどいないから。
これも倒置法。



 


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