月日は百代の過客にして


昨日は隅田川に架かる千住大橋北詰に立った。
春も深まり、柔らかな日差しの中を渡る川風は、もう初夏の匂いがした。
元禄二年三月二十七日、芭蕉は門人の曽良を伴って奥の細道へと旅立った。
<「奥の細道出立の日」参照>
今は無理だが、いずれ還暦を過ぎて日々の暮らしに余裕が出来たら、その時は芭蕉の足跡を訪ね歩きたいと思う。

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3月27日に矢立の初めとあるが、ある本によると、当時一月が閏で二度あったため、実際の深川出発は前日の26日だったらしい。
芭蕉一行が千住に着いたのが昼前。
宗匠の芭蕉を慕い、門人の杉風(さんぷう)他、多くの人たちも千住での見送りのために舟を仕立てて芭蕉と共に隅田川を上った。

やよひも末の七日明ぼのヽ空朧々として、月は有明にて光をさまれる物から不二の峰幽にみえて上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。
むつまじきかぎりは宵よりつどひて船に乗て送る。


ここで思い出されるのが、

花の雲鐘は上野か浅草か

これは前年、芭蕉44歳の春の句である。
(夏には利根川を下って鹿島神宮に詣で、「鹿島詣」の紀行文を記している)
すでに大川(隅田川)沿いの花(桜)は緑の葉を茂らせていたが、川波に揺られつつ、船上からは浅草寺の五重塔や上野寛永寺の伽藍が見えていたはずで、その印象を元に「花の梢又いつかはと」の文となったのだろう。

せんぢゆ(千住)と云ふところにて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそヽぐ。

行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として行道なをすヽまず。人々は途中に立ならびて後かげのみゆる迄はと見送なるべし。


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正面からカメラを構えたら、何と御影石にシッカリと私の全身像が写ってしまった。
やばいやばいと横に移動して撮り直し。
そのために見づらい写真になってしまった。
碑の左端に映り込んでしまったのは私の半身と腕であります。


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橋の横から川に下りる階段がある。
川岸のテラスの堤防には千住大橋や奥の細道などの説明が多数あり、しばしいにしえの千住に思いを巡らせる。
芭蕉はこの場所で船を下り、奥州への第一歩を踏み出した。


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芭蕉に心酔していた蕪村の俳画が堤防の壁面に描かれていた。

ことし元禄二とせにや、奥州長途の行脚只かりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若(もし)生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸(やうやう)早加(草加)と云しゅく(宿)にたどり着にけり。痩骨の肩にかヽれる物先(まず)くるしむ。只身すがらにと出立侍るを紙子一衣は夜の防ぎ、浴衣雨具墨筆のたぐひ、あるはさがりたき餞(はなむけ)などしたるはさすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。

半僧形の芭蕉は脚絆に墨染の衣、檜の笠、頭陀袋、手には数珠、椿で作った杖も突いていたようだ。
一方、同行する曽良はこちらも剃髪して半僧形、大風呂敷を背に、その中身はといえば提灯、蝋燭、火打石、浴衣、油紙の雨合羽、薬箱(食当たり、便秘、虫さされの薬。奇応丸、三黄湯、梅花香などの生薬)だったらしい。

一日目の宿は草加としてあるが、曽良が覚え書きとした随行日記によると、
「廿七日夜 カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余」
とある。
これは「奥の細道」が単なる紀行文ではなく、芭蕉が推敲に推敲を重ねた結果の文学的虚構であることの証拠となっている。
(徳川幕府の密命を受けた「芭蕉隠密説」などもあるが、これは論拠も乏しく、牽強付会の絵空事と断言して良いだろう。紀行文学の奥の細道に関して深読みは意味のないことだが、的外れの恣意的な読みは更に意味がない)

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず。海浜にさすらへ去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひてやヽ年も暮、春立る霞の空に白川(白河)の関こえんとそゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取ものも手につかず、もヽ引の破をつゞり笠の緒付かえて三里に灸すゆるより、松島の月先心にかヽりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞ雛の家

表八句を庵の柱に懸置く。


芭蕉の胸の内には旅中に客死した西行、宗祇、李白、杜甫などの先人たちの生きざまと重ね、老骨に鞭打って旅に出る悲壮観があり、それゆえ行程も遅々として進まぬ印象を与えんがための草加泊まりとしたのだろう。
実際は粕壁(春日部)まで歩いているので、かなりの健脚である。
「前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそヽぐ」
などの感傷表現を旅のプロローグに用いているので、どうしても千住の次の宿場、草加宿までの行程がやっとであったとしたかったのだろう。
鳥や魚の目も涙ぐんでいるようだ、の比喩は個人的には好きではないが、それでも芭蕉の心情が良く表れている。

しかし芭蕉を駆り立てるもの、それは詩歌の歌枕を訪ねることであり、吟行の大きな延長線上として俳諧の道を究めんがための旅に他ならない。

白川の関屋を月の漏る影は人の心を留むるなりけり

これは芭蕉が心酔した西行の歌である。

都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

後拾遺集の能因法師の歌が浮かび、また同じく平兼盛の歌、

たよりあらばいかで都へつげやらむけふ白河の関はこえぬと

も、当たり前の文学的素養としてあっただろう。


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書き始めると際限がないので終わりにするが、後日、私は千住の旧日光街道を少しだけ歩くことになる。
その話はまた日を改めて。



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この記事へのコメント

玉梓
2008年06月20日 10:58
全身が写り込んだ写真の方がよかったですね♪
書き始めると際限がないなどと言わず、思う存分書いてください。
(^_^)
番頭
2008年06月29日 22:24
最近は存分に書く時間がないのです。
どうかご理解を。
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