旅の終わりに
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作成日時 : 2018/04/06 16:30
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思い出作りの九泊十日の旅行がやっと終わった。
三泊以上の連泊は宿が嫌がるのを承知しているので、宿泊先を三度替えた。
どこでも食べて寝て、温泉に浸かってまた食べて寝てを繰り返していた。
料理はDHAの吸収を心掛けて、近海魚や地魚中心で用意して貰った。
もっとも私は二日間中抜けし、温泉付きの高齢者向け介護療養施設を二ヵ所見学に出掛けた。
行ったところで本人は入居するつもりは一切なく、何かの参考になれば、くらいの見学だったが、目ン玉が百万光年先までも飛び出るような金額には現実感がなく、ポカーンと口を開くだけだった。
滞在中は朝夕と年寄りを散歩に連れ出し、自然豊かな宿周辺を歩いて、少しでも脚力が落ちぬよう心掛けた。
老化は足から、とはいうものの、すでにかなりの老境だから、足よりも内臓疾患が気に掛かる。
そこで、帰りの昼食も魚市場へ寄ってキンメの水揚げを見学し、近くの店でこの旅最後の食事にした。
もうこれで上げ膳据え膳の楽ができないと思うと、またおさんどんが待っている憂鬱感に苛まれるのだが、ただの日常に戻るだけと割り切れば、どうということはない。
キンメは脂が強く、お刺身ならば2切れか3切れでもういいよ、となるし、定番の煮付けは煮汁の味付けが濃すぎて、年寄りには不向きである。
まあ、そこらへんはメニューで好きなものを選んで、最後まで魚づくしで終わらせたい。
問題はここからである。
小食の年寄りだから、選んだ丼物のご飯減らして貰おうかと提案したら、そんなことは嫌だと言う。
食べ切れはしないのだ、残すに決まっている。
満足に食事を摂れない人が世界中に溢れているというのに、年寄りのそんな日常から1千万光年も離れた食糧事情の現実は非日常の異次元のことでしかなく、提案を拒否する理由は、戦中戦後の食糧難を経験しているからと見当がつく。
それだけひもじい時代をくぐり抜けて来たトラウマだか物欲だかが、同じ料金を払うのに、何故ご飯を減らされなければいけないのかの理由の根拠になっている。
これはもうこの年齢になると直らない。
仕方なく、そのままでオーダーした。
それでも自分が食べられる量はわかっているから、ご飯のほとんどがこちらに回って来る。
私も、出されたものを残してはいけないと躾けられているので、腹八分どころか腹十二分か十五分になる。
こんな繰り返しで、この十日間で2キロも増えた。
ずっと標準体重を維持していたのに、2キロのウエイトは意外に負担が大きい。
月は満ち欠けを繰り返すが、月自体が満ちたり欠けたりするのではない。
月そのものの大きさが不変であるのと同じで、私も月本体そのままでありたい。
現状維持は簡単そうでいて、実は何事に於いても難しいと相場が決まっている。
相場に手を出したことはないが、社会がそのように決まったルールで動いているのだから仕方ない。
最後はお茶で流し込むようにして食べ切った。
私が、自分でオーダーしたご飯を減らして貰えれば良かったのだが、年寄りはそれも納得いかないと口出しするものだから、ハナから諦めている。
そうだ、単品料理を頼むべきだったのだ。
って、今さら遅い…。
本音は気乗りしない旅行だった。
ところが温泉旅行は年寄りのモチベーションを上げるのにかなり有効な手段で、それによって、体力、筋力、そしてまたケガなどしないための注意力を維持しようと怠けずに努力するから、この状態をこれからどのくらい続けるかは神のみぞ知ることながら、温泉旅行で釣って、多少でも寿命だか余命だかを延ばして貰いたいのだ。
認知機能の低下がじわじわ進み、遠くない日に確実に完全介護に突入する。
妻には申し訳ないが、子供が居なくて本当に良かったと思う。
将来、私自身が認知症になって自分の子供に苦労は掛けたくない。
苦労を掛けるつもりがなくても、必ず子供にツケが回るように構築されてしまった現在の社会の仕組みなのだ。
大きなことを言えば、社会通念としての、秩序、道徳、法律、慣習、常識などによって支えられている価値観を肯定することが、イコール現代の社会環境に適合している証しなのだが、それらを構成している常識や道徳意識が大きく揺らいでいるように映るのだ。
現代的価値観も認知機能も、共に手を取り合って在らぬ方向へ進んでいるような気がして、また不安が増す。
心配事が増えることによって、脳は時として自分を騙すのだ。
認知症の実体はそれほど単純なメカニズムではないのだろうが、大雨のたびに山が崩れるなんて正常じゃないことくらいわかっているはずなのに、呆然と手をこまねいているしかない現実に相似しているように思えるこの頃である。
帰宅して安心したのか、ちょっとぼやいてみた。
年寄りのモチベーションを維持させるべく、また三週間後に温泉旅行へ連れて行く。
今度は満年齢八十九のお祝いも兼ねているから、行くっきゃない無限ループなのだ。
二人で共有できる思い出作りは今しかない。
しかし、私自身のわずかな老後の蓄えが、見る見る減って行く。
安心してる場合じゃないぞ、この阿呆め!
二週間後には、妻への家庭サービスも約束してあり、何処かへ出掛ける予定も入っている。
羨ましい、優雅なご身分で、などの揶揄も聞こえそうだが、他人の懐事情が淋しくなることに激しくヨロコビを感じる心の貧しい人もいるだろう。
そんな人たちの期待に応えるべく、数年後にはビンボーして、厚労省前で野垂れ死にしよっと。
 旅の終わりに
旅の終わりに
乾いたあの空へ この道は続く
人は笑顔をどこかに忘れ
人は涙を風に散らした
ほこりにまみれて 地平線の彼方
はるかな君の住む街に続く
やさしい君よ そのぬくもりを
やさしい君よ そのぬくもりを
枯野を吹かれて 冷たいほどの僕を
その腕の中で眠らせておくれ
疲れた体を預けたい
乾いた風が 僕の体の周りを
あてもなく流れて行くのだから
やさしい君よ そのぬくもりを
やさしい君よ そのぬくもりを
※ 不在中にブログの仕様がカスタマイズされていてビックリ。
豆太郎さんに感謝であります。
留守中に拙ブログを訪ねて頂いた方にもお礼申し上げます。
時間を作り、順次お伺いさせて頂きます。
(お礼参りをプレゼントするぞ〜!)
「皆さんの会社に行って是正勧告してもいいんだけど」とは、ちと違います。
次から次へと、まあ色々出て来ますねえ。
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