時雨亭往還

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zoom RSS 「あはれ」の備忘録

<<   作成日時 : 2018/02/22 23:50   >>

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哥は物のあはれをしるよりいでき、また物の哀は哥を見るよりしる事あり…

本居宣長の「紫文要領 巻下」で見つけた一節で、宣長の歌論が展開する書である。

さらに「石上私淑言 上」を確認すると、次の一節も見える。


人のみにもあらず、禽獣に至るまで、有情のものはみな其声に歌ある也


これらは貫之の仮名序を受けてのことわかる。
(哥と歌で別表記されているが、私の誤記ではなく、宣長にとってはどちらでも良かったらしい)

どこかに仮名序を書いた記憶があるような無いような、それをコピペすればよかろうと思うも、探すのが面倒なので、以下に載せる。

癪にさわる心地こそすれ、この仮名序を踏まえなければ進まぬのでやむを得ぬ、難儀であるぞ!


やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。世中にある人、ことはざしげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、をとこ女のなかをもやはらげ、たけきもののふのこころをもなぐさむるは歌なり


後世の宣長に語らせるまでもない歌論の本質をついた貫之の主張は単純明快だ。
表現者としての歌人が持つ精神性を「種」とし、そこから萌芽した心情によって紡がれる言葉には、鬼神をも手懐け男女の仲の潤滑剤にもなり荒ぶる武士の尻子玉だって抜いちゃう力があるんだよ、歌ってそれほどすごいんだからね、と言っている。

人のみにもあらず、禽獣に至るまで、有情のものはみな其声に歌ある也、の宣長は二番煎じの屋上屋を重ねたわけだ。
それだけ仮名序に感銘を受けていたことがわかる。

詩歌の根源には、日本人が普遍的に持つ「物のあはれ」に感応する精神構造があり、今の季節なら梅にウグイス、夏は川辺のホタル、錦秋や落葉の秋などに哀れを感じ取っている。

当たり前じゃん、という前に、その当たり前こそが日本人のアイデンティティであって、嬉しい悲しいに常に同衾する生き方の原型と知った方が良かろうと思うのだ。

とはいっても、情緒とは元来不安定なものだから、神仏に代わるものではなし、まして正邪を判定するものでもないので、辻褄が合わないこともままあるが、それこそ日本的な曖昧な部分である。
この場合の曖昧とは、了解したと同義である。

ところが西洋では往古から自然は征服するものとの認識があって、これはおそらく心理学的な概念の「心」が正邪などを区分けする精神的実体が存在するからなのだろうが、神を思想の中心に据える人間中心の絶対基準の精神構造が確立されているからだ。

欧米が神中心であるのに対し、日本人は雪、月、花に感応するそれぞれの心が中心で、物の哀れに響き合う自然中心である。
アミニズム的な世界観や宗教観と置換しても良い。

だから近代登山以降では頂上や未踏ルートを極めれば「征服した」などと勘違いする人も現れて、物の哀れが本当に哀れでしかなくなっていることに寂しさを覚えたりする。

折衷したりぼかしたり、便宜的に一部分を受容する日本人固有の思想や信仰は、神一辺倒の西洋思想では受け入れがたい、もしくは理解の範疇を超えた驚嘆すべき非常識な国民性や文化的基盤と映るだろうが、「物のあはれ」を知る我々の精神構造は誇っていい。

宗教的始祖や英雄が提示した創唱的宗教とは異なり、日本人の信仰は、それを下地にして純粋培養された習慣や価値観であって、これこそが歌で語る宗教観や自然観である。

加持祈祷、只管打坐、念仏三昧、遊行、これらから溢れ出た受け皿が和歌の側面でもあり、信仰に身を委ねながらも、その信仰を詠まずにはいられないのがいかにも日本人らしい。

「あはれ」という有情の根本的な心の動きで、我々は天地や万物と共棲しているのである。
だから歌は、心から自然に滲み出て来るものなのだ。

たまには技巧に走る歌もあるが、魂の吐露は多少目が肥えて来ればわかる。
「あはれ」に言葉の律動を与えたものこそが和歌である。

芸術としての歌と宗教としての歌は区別することが難しい。
結局、日本人は歌で表現するような生き方を繰り返して来たらしく思えるのだ。

空海は「和歌はこれ陀羅尼なり」と言った由。
正法眼蔵隋聞記で「文筆詩歌等その詮なきなり、捨つるべき道理左右に及ばず」と、歌は信仰の妨げになると文学を否定した道元ですら、わかっているだけで六十首(歌集 傘松道詠)の歌を遺しているのは、仏道修行の妨げになると戒めながらも、溢れ出る根源的な感動を詠まずにはいられなかったのだろう。

定家の父、俊成も貫之の仮名序に激しく共感している。


かの古今集の序にいへるがごとく、人の心をたねとして、よろづの言の葉となりにければ、春の花をたづね、秋のもみぢをみても、歌といふものなからましかば、色も香も知る人なく、何をかはもとの心とすべき


この流れは貫之を源流として西行、俊成、定家、宣長、良寛と系譜が続く。
一方で古今伝授があり、こちらは定家から宗祇を経て柳沢吉保へと続く。



意味わかんねえぞ、と言われるのを承知でここまで進めて来たが、これは私の未熟な歌論ともいえない走り書きや覚え書きのつもりなので、ここまでお付き合い下さった方には申し訳ないとお詫びする次第であります。

核心を突かず、衛星のように核心を周回しているタヌキ親父の御託を信じてはなりませぬ。
無理にわかろうとしてはなりませぬ。
くれぐれもご用心を。

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