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zoom RSS 六月の女すわれる荒莚

<<   作成日時 : 2017/06/26 20:00   >>

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敗戦から72年も経ってしまったのだから無理もないのだろうが、先の戦争を知る人がどんどん少なくなって来ている。

日本がアメリカと戦争をしたこと、負けたこと、320万人もの国民が死んだこと、国中が焦土と化したこと、そして飢えたことを知らない若者が多いと聞くに及んで、教育は何を教えているのだろう、日本は現代の若者を何処へ連れて行こうとしているのだろうと、心がざわつくのである。

教えていても生徒が聞いていないと言い逃れるのはまた別問題で、大事なことは概して面倒なことの場合が多々あるから、より理解しやすく丁寧に教えなければいけない。

と、正論を吐いても暑苦しいだけだ。


タイトルの句は昭和21年、石田波郷が詠んだもので、以下の自注がある。

焼け跡情景。一戸を構えた人の屋内である。壁も天井もない。片隅に、空缶に活けた沢瀉がわずかに女を飾っていた。

画像焼け跡にバラックを建て、しかし壁も天井もないから、ほぼ野天に起居している女性なのだろう。

この17音と自注だけでは、女性の家族の有無などの情報が得られないので、こちらで想像を巡らせるしかないが、空缶にせよ、活けられた沢瀉が、その女性の精神や来し方を余すところなく表現している。

情報はこれだけで十分で、波郷の思いは伝わって来る。
「六月」とあるから、蒸し暑い梅雨のこの時期であることにも注目したい。

曇天か梅雨の晴れ間か、雨は降っていないようだ。
なのに、諦念や根拠のない希望がないまぜとなって自失しているのか、女性はただ荒莚に座っているのである。

戦後の庶民生活の窮乏の上に社会秩序の混乱もあり、疲弊した人たちが生き抜くには、ずいぶん過酷な昭和の時代を、波郷も共有しているのである。

しかし、そこに作者は一輪の沢瀉を発見し、それが読み手であるこちらを、芥子粒程度ながら安堵させる。
根拠のない希望であるにせよ、女性も波郷もこちらも、それを信じたいのである。

荒莚と自注の沢瀉が哀しくも絶妙に響き合っているが、もちろん、17音だけでも十分に想像の喚起は可能だ。

画像廃墟を前にした庶民は、すべからく飢えと渇きと貧困に喘いでいた。

そして見事に復興と発展を遂げるのだが、その熱量の合算は数字には出ないから、お人好しばかりが割を食う。

その間に世界は、資本主義下でも社会主義下でも、富が偏在するように構築されてしまった。

梅雨のさなか、キャピタルゲインなどで利益を上げた富裕層の人たちがもっともっと豊かで快適に暮らせるように、大多数の人たちが今日も汗水垂らして働いたはずだ。

富の再分配を主張し、人の欲深さを嗤うなんて時期はとっくに通り過ぎていて、今さらながら、自由と平等は相反する概念だと思い知らされるのである。

波郷が見た女性は、おそらくもう生きてはいないだろう。

画像一ヵ月前には懇意にしていた高齢の女性が逝った。
まだまだ戦争体験を聴きたかったと後悔しても遅い。
歴史から得た教訓こそが、国民が共有すべき財産なのだ。

空缶に沢瀉を活け、自然から慰撫や希望を見つけようとした精神は、お金や借り物の思想によってアイデンティティが決まる現代の風潮へのアンチテーゼである。

哲学者の梅原猛は言う。
「人間は他の動物と違い、同類殺害(戦争)をする動物である」

「戦後」のつもりが、実は次の「戦前」だったとならぬように注視したい。


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